悲しみの具現化

誰かが悲しい時にもっと親身になって優しく心に寄り添うことが出来るわたしだったら良かったのに、と思うのは何度目だろう。誰かと一緒にいることのメリットは嬉しいことは倍に、辛く悲しいことは半分にということを聞いたことがある。しかしわたしは困難や逆境の中で、人はひとりで立ちがるしかないと思っている人間なので、いかんせん他人が手出し口出しすることを美しくは思わない。烏滸がましいことだとすら思う。

誰かの幸せを倍にすることは出来るかもしれない。しかし誰かの悲しみや苦しみを分けて貰うことなど不可能だ。仮にそれらが現実に存在する形となった場合にも、それは二分割した時点でもうそれ自体の悲しみは変容してしまっているからである。あたかもすべて理解したような言葉を連ねているけれど、要は持ちようのない能力の不要さを吐き捨てているだけなのかもしれない。いつだって皆不平等だ。わたしには気持ちを慰める言葉の語彙力も他人を思いやれる器量も持ち合わせていない。自身で強くなれるように、自分を信じて進めるように、そう思いながら彼を抱き締める。

恋人

プライベートな時間を一緒に過ごす人が出来た。好きだよと言われれば、私もだよと返すし、会いたいなと言われれば、わたしも会いたいなと答える。そのような関係だ。高揚するようなときめきや感情の起伏による胸苦しさは無く、穏やかな毎日に互いに少しだけ気を遣うひとが違和感なく紛れ込んできたという表現がいちばん正しいと思う。自分の感情に素直で、人の気持ちを汲んで我儘に振る舞うフリをして、まわりをよく見ている。少しわたしと似ているのかもしれない。

拘束

誰のことも好きじゃないし、誰のことも大切じゃない。自分だけが大切で自分だけが可愛いかったのだ。しかしそんな自分すらも、わたしのことを裏切ったりするから、もう誰のことも大切にできない。誰かを頼りにして生活を営みたくはないし、自分のせいにして全てを受け入れる度胸もない。
誰かを好きになれるのは本当に才能というか能力というか、素質というものなのだと思う。それはすべての人間に兼ね備えられたものではなく、ある特定の人間のみが有する特別なものなのだと思う。じぶんの感情が酷く希薄なのは随分前から気づいていた。いつからなのかは覚えてないけど。
誰かを好きになったふりをして、本当は自分のことしか考えてないので、自己中心的な行動ばかりしてしまう。誰かに行動を制限されたくないし、誰かに心を支配されたくない。