悲しみの具現化

誰かが悲しい時にもっと親身になって優しく心に寄り添うことが出来るわたしだったら良かったのに、と思うのは何度目だろう。誰かと一緒にいることのメリットは嬉しいことは倍に、辛く悲しいことは半分にということを聞いたことがある。しかしわたしは困難や逆境の中で、人はひとりで立ちがるしかないと思っている人間なので、いかんせん他人が手出し口出しすることを美しくは思わない。烏滸がましいことだとすら思う。

誰かの幸せを倍にすることは出来るかもしれない。しかし誰かの悲しみや苦しみを分けて貰うことなど不可能だ。仮にそれらが現実に存在する形となった場合にも、それは二分割した時点でもうそれ自体の悲しみは変容してしまっているからである。あたかもすべて理解したような言葉を連ねているけれど、要は持ちようのない能力の不要さを吐き捨てているだけなのかもしれない。いつだって皆不平等だ。わたしには気持ちを慰める言葉の語彙力も他人を思いやれる器量も持ち合わせていない。自身で強くなれるように、自分を信じて進めるように、そう思いながら彼を抱き締める。